きっと私はそうであることが当たり前のように生涯写真を撮り続けるだろう。それで食べていきたいという気持ちがあるわけではなく (むしろ仕事にすることは不向きだと自覚している)、私にとって写真を撮るという行為は、“伝える” というより “自己と向き合う手段” であるから、それをしない人生なんて到底考えられない。それだけの理由だ。ただ、こうして頭の中を視覚化しようと思い立った理由は例外ができてしまったから。
それは、ある一人の写真家との出会いから始まった。
私の目が、心が、その世界に触れると、「今すぐにでも写真を撮りたい」、そして「もうこの先写真を撮らなくてもいいかもしれない」、そんな矛盾した感情が同時に生まれてしまうのだ。もっと言えば、もし仮に “この先一生写真を撮れなくなる”、もしくは “その人の写真に触れることができなくなる” という究極の選択を迫られたとしたら、私は前者を選んでしまうかもしれない。
振り返ってみると、写真と出会って十年もの月日が経とうとしているけれど、未だ嘗てこんな思いに駆られたことがあっただろうか。展示を観に行く度に「私は感受性が低いんだ」と思い悩んでいた学生時代が嘘のようだ。
だからこそ、初めは自分の感情を受け止めきれなかった。「もしかしたらこの作品に限ってのことなのかもしれない」と考えたりもしていた。しかし、どの作品に触れても不思議と同じ感情が沸き起こり、頬をつたるものがあるのだ。
その人は、とても優しい距離感で世界を捉えていく。ただただ美しく、偽りのない世界を。 そこには夢の中に誘われていくような心地よさがあり、体中の細胞がいつまでもその中にいたいと願う。そして私は、時が経つのも忘れて写真に触れてしまう。繰り返し、繰り返し。
「言葉にしてしまうのが勿体ない」
こんな感情も、その人の写真から教わった。そう思いながらもどうにか言葉にできないかと思う私は、その心地良い世界に触れる度に、こうしてまた新たな矛盾と向き合うことになってしまうのだ。
– 2016年9月/自室で書いた日記より –
[Photo by Kazashito Nakamura]
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